絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

K先生との手紙とその背景1 No.113

 K先生(女子)との手紙のやり取りと、その背景の話。

 僕からのK先生(女子)へ手紙を送った最後の数回、僕からの手紙は、K先生(女子)側にとっては意味不明の内容だったかもしれない。

 それは気を引こうとしたり、おかしなことをしようと考えた訳ではない。

 卒業して一年くらい経過してからだったか、僕は『今年は絵で頑張ります』という内容の手紙を出す。

 それから半年~一年くらいしてから、K先生(女子)から展覧会の案内と、それについて少し書かれた手紙が送られてきた。

 それに対して、僕は『大学時代のことがどうしても忘れられなかったので、このやり取りは、これで終わりにします』という返事の手紙を返し、一方的にやり取りを閉じた。

 

 ここから書いていくことは、その時の細部の話となる。

 あの頃、どんな状態で何を考えていたのかを書いて、今のカテゴリーである『#画学生時代の話』としての話は終わりにしようと思う。

 

空まわりと後悔

 京都に引っ越して、半年くらいはコンビニてまのアルバイトをしていた。

 毎月生活するにはギリギリのお給料で、その分、絵を描くというような時間を確保していた。

 自分の意思でそうしていたのだが、いつまで経っても絵が描けず、何をするのでもイライラして集中できず、確保した時間が苦痛であった。

 それでも、幾つもの美術館に行ったり、絵に関係する講演会で話を聞きに行ったり、うまく行かない絵を繰り返し描こうとしたり、そんな日々を送っていた。

 画材屋さんの店員さんに顔を覚えてもらい、行く度に絵や画材についての長話をしてしまったり。

 美術館のある講演会で、上村淳之さんの話が聞けると知って聞きに行き、上村淳之さん本人へ絵についての質問を持ちかけたこともした。

その会場で上村淳之さんの芸大生時代からの知人(友禅画家をされていた)と接するようになり、日本画について色々と話を聞かせてもらっていた。

 (上村淳之さんは、僕が好きだった日本画画家の上村松園の孫であり日本画画家であり、当時は京都芸大の副学長に就任されたばかりだった。)

 そんな感じで知り合った人から、知り合いの画家や画廊や美術館の職員さんを紹介してくれる、という話を持ちかけて貰っていた。

 でも、僕は絵が描けないで困っている立場にあり、通っていた美術大学の教員からは「芸術には関わって生きていけなくしてやる」等と怒鳴られ圧力をかけられていた存在でもあった。

 だから、善意でそういう話を持ちかけてくれている人達の話に乗っかって、後々に迷惑をかけるような要素は作れないと考え、そういう紹介話は全て断っていた。

 それでもいつの間にか、絵に関係する知人は少数ではあるが、増えていた。

 僕の過去には、色々と面倒なことがあったことや、卒業した以降も、そういう面倒ごとを抱えている存在であることを、誰にも口にすることはしなかった。

 僕自身、いつまでもこの面倒ごとを意識していてはいけない、という考え方はしていた。

 それでも、絵が描けないという状態は、僕にとっては致命的だった。

 なにかトラブルになったときに、僕の発言は力のない者の何もわかっていない発言にしかならないのだ。

 僕に善意で期待を持って接してくれている人達に、何かの被害や皺寄せがいった時・いきそうな時、僕はそれを阻止したり庇ったりできる存在ではない。

 美術大学に在籍していた頃、僕と友人であったというだけのことで批判されたり危害を加えられたりして、迷惑を被った人を何人かみてきて、申し訳ない気持ちで一杯になっていた。

 だから、僕が絵を描けない・力のない内は、ある程度の関係的距離を持たなければ迷惑をかけてしまう。

 そういう気持ちが、心に沸いてしまう。

 当時の僕は、いつも思い悩むばかりで、冷静な考え方が出来なかったという面もあったけれど、それ以前に、頭のまわる人ではないのだ。

 絵に関わって生きている人や、絵が好きな人がいれば、僕は後先考えず、絵について色々と語っていた。

 そうしてふと気づけば、 僕の絵なんか殆ど見たこともない人達なのに、「期待している」「応援する」という言葉を受けるようになっていた。

 そんな状況に気付いてから、これは不味い、浅はかだった、などと考えて後悔してしまう。

 

仕事に対しての気持ち

 沢山の絵を学び描こうと京都へきたけれど、毎日それなりの時間を絵に費やしながら、一枚も絵は仕上がらない。

 その上で、ギリギリの生活を続けるのも辛く、もう少しお金を稼ごうと考える。

 もう少し経済的に余裕を持って絵を描くこうか、北海道へ帰ろうかとも迷っていた。

 そんな考えからギリギリの生活を辞めて、まずはお金を稼がなくてはと考えた。

 そうして最終的に選んだのが、引越屋だった。

 同じ稼ぐのでも、本当はコンビニの出勤頻度を上げたり掛け持ちのアルバイトをしても良かった。
 でも、コンビニのアルバイトでは、作業を行いながらいつも余計な事を考えてしまう。

 少しの間はもっと体を動かし、余計な事を考える余裕の持てない程に、仕事に打ち込めないかと考えていた。

 仕事に関しては、絵に関係した仕事であれば、正社員として働きたかった。

 でも、僕が社会に出たときはバブル崩壊就職氷河期・労働者派遣法の改正、などといった社会情勢が重なっていて、正社員としての就職も競争が激しいと聞いていた。

 それ以前に、大学での教員達との関係が険悪だったもので、結果として、僕は大学在学中での就職活動自体を諦めていた。

 大学を卒業して、コンビニでアルバイトをしてから引越屋の準社員(実質的にはアルバイト)へと仕事を変えていく過程では、何度かデザイン事務所の求人に応募をしていた。

 でも、デザインの専門的な勉強をしていない絵画系の立場では、そういう処での採用も難しい。

 大学時代に、どうすればよかったのかと考えれば、2~3年生の辺りから大学を相手に訴訟を起こしたり、資格・免許の取得を諦めたり、教員達との和解を目標とした前向きな話し合いを諦めるなどをして、それで漸く就職活動のまともな入り口に立てたのかもしれない。

 そう考える度、大学生活の4年間というのは、僕には無駄以上に多くの可能性を失った時期だったと思え、後悔ばかりが頭をめぐる。

 

引越屋の仕事

 お金を稼ごうとついたこの引越屋の仕事も、当初は数ヶ月から半年程度で辞めるつもりで働き始める。

 面接の辺りからそういう話をして入社してきたのだが、ズルズルといく。

 この引越屋の仕事は、覚悟していた通りに辛い仕事だった。

 それでも一時期、頭のなかでこだまする悪意が薄れていった。

 僕は時期に退職するのだから、その後こそ絵に集中出来る、そういう時期が漸くやってきたと考えていた。

 その時期にK先生(女子)へ送った手紙こそ「今年は絵で頑張ります」というものだった。

 でも、面倒事やら何やらで、ここでも色々と予定は狂っていく。

 

 引越屋の仕事は、朝は早くて帰るのも遅い。
 本来の時間以降から何時間残業しても、残業代は一切つかない。
 従業員間での暴力やイジメは常習化していて、いつも人員不足で苦しんでいる。
 勿論、体力面でも辛い。

 二十歳前後の若者から、三十歳近いある程度の社会経験をしてきた者達までもが、退職したいと泣きながら主張している場面を、僕は何度も見てきた。

 それから、ここでも僕は、この職場での暴力問題に口出しする様になる。

 そのことで、トラブルや辞めさせることを目的とした嫌がらせは、僕の処へより多く集まってくる。

 そういう状況からも、本来は逃げるべきなのだろうけれど、僕は意地になって立ち向かってしまい、本来の退職する予定だった時期以降も、仕事を続けていく。

 正社員の立場に関しては、細かな待遇までは把握していなかったけれど。

 こなした現場数等によって給料も変わってくることや、普通の職業よりも給与面では優遇されてはいた。

 とはいっても、後にその会社が雇用内容に対しての訴訟を受けていたり、ブラック企業大賞(ブラック企業大賞 - Wikipedia)というある企画でも、この会社のことは何度か話題に持ち上がっていたり、そんな会社でもあった。

 

 細かな話は、ここではあまり大事なことではないので、ある程度は省こうと思う。

 いつの頃からか、常習化していた職場内での暴力やイジメも見掛けなくなっていき、これ以上は僕も頑張る必要は無いと感じて、僕はその会社を退職する。

 そうして、また絵を描けるようになったかといえば、そんなことはなかった。

 頭のなかにこだまする悪意も、すぐにまた始まっていった。

 引越屋で働いていたあの頃を思い返せば、報道等で見る過労死した人達の労働内容からは、(嫌がらせによって)遜色ない程に働いていた。

 いつ過労死をしてもおかしくない状態にまで追い込まれていて、それでも僕はそこに挑んでいた。

 疲労によって身体が思うように動かなくなって、そのことに対してもボロクソに責められていた時期もあった。

 そうまでしても意地になっていたのは、画学生時代の時と同様に、仕事を通してわかりあえることがあるのではないかと信じたかったからだ。

 そこまで必死に仕事に食らいついて、漸く一時的にこだまし続けていた悪意は薄れただけで、僕はそれを乗り越えた訳でもなかった。

 そんなことを実感したことや、自分が納得する処まで仕事をやり切ったこともあり、僕は北海道の実家へ帰ることにした。