絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

卒業後 No.112

 前回の投稿から、少し間が空いてしまいました。

 過去の投稿を少しだけ手直しするつもりが、適切な文章にならず、結構な時間がかかってしまいました。

 いま書き綴っている画学生時代の話も終盤なので、頑張って終わらせなくてはですね。

 話の流れとして美術大学は卒業しましたが、カテゴリーにしている『画学生時代』としての話は、もう数回くらい続けます。

 

壊れた心

 美術大学を卒業してからも僕の心は、大学在学中と同等か、それ以上に壊れていた。

 母がくびをくくってしまう悪夢は、頻度は少なくなっていくものの、その後もずっと見続けていく。

 大学4年間で受け続けてきた教員や同級生達の暴言は、寝ても覚めても何かをしていても、頭のなかでこだまし続ける。

 頭に浮かぶというレベルではなく、スピーカーを頭のなかに埋め込まれて、絶えず暴言を流されているようなそんなイメージが近いかもしれない。

 僕はそれを過去のこととして忘れたいと思うのだが、そんな意思とは関係なく、いつも頭のなかで暴言がこだまして、ずっと頭から追い出せずにいた。

 大学在学中は、苦しいと思いながらも課題の絵を描いていたけれど、卒業後は絵が描けなくなってしまった。

 大学時代では、課題を提出して進級しなければ、母がくびをくくるかもしれないという恐怖感を感じていた。

 それが絵を描く行為の後押しになっていて、自分が納得いくかいかないかよりも、課題としての体裁が整っているかが目的になり、どんなにイライラして気持ちが高ぶっていても手を動かしていた。

 美術大学を卒業してその後押しがなくなり、自分の為の絵を描こうとしても、絵に対しての気持ちや感覚が歪んで体裁的なものにすら行き着かない。

 作業が順調に進んでいても、S先生等から理解できない批判ややり直しの強要されていた時の言葉やイメージや感覚が沸き起こり、絵を進められない感覚に陥る。

 

 これ迄の話のなかで、うまく盛り込めなかった話のひとつ。

 僕が学び描こうとしていた日本画というのは、戦前にあった日本画の流れを基にしたもので、竹内栖鳳上村松園といった画家の描いたものに依った考えかたを持っていた。

 竹内栖鳳が古典の勉強に意欲的だったこともあり、僕は古典の勉強にも興味を持っていた。

 しかし、その戦前の日本画を、大学の正規の教員達は実質的には否定していて、古典を教えられてる人も、正規の教員のなかには多分いなかった。

 それから大学の2年生の前半辺りでは、特にS先生なんかは、僕の向かおうとする方向性を理解した上で「そういう絵は描かない方がいい」という言葉をかけてくる。

 描かない方がいいということは、言葉の上では描いても良いのだが、実質的には「描いてはダメだ」という指示だった。

 その言葉の意味合いのことでも長々と揉め、そういう絵を描かせない為のルール作りや指示が、僕とのやり取りの直後から気紛れに作られていく。

 それから他の教員がこの話に入ってきた時には、「描きたい絵があるなら描けばいい」という言葉を口にするし、僕が描こうとしているのは抽象画であると、身勝手に内容をすり替えて語られていく。

 抽象画もやってよいと口にしながら、僕が描こうとする内容の殆どには否定される。

 まわりの生徒と同じ様な絵を描こうとしていないからダメ、という基準で判断され、まわりの生徒と同じ絵を描けと強要されてもいった。

 そういう問題に、僕は延々と反論して揉め続けていった結果として、絵を描く行為事態が僕の心のなかでは、家族の命さえも脅かす程の嫌なこととなり、トラウマとして残った。

 大学を卒業する時には、S先生からは「この大学で教わったことは、全て忘れろ」と言われたことや。

 卒業時の学内報で、大学の学長が生徒に向けた文章に「この大学で学んだことは、一生の財産だ」と書いていて、そのことに苛立っていたこと。

 彫刻のK先生からは「大学を卒業した以降は、俺達よりももっと上の立場になって、日本画の先生達に復讐しろ」等の言葉をかけてきていて、僕は彫刻のK先生のことを日本画の教員達と同等に憎んでいることなど。

 卒業する最後の最後まで、教員達による悪意と、そこに同調した同級生達の悪意は続いた。

 

 そういう経験とトラウマで、僕は絵が描けなくなっていた。

 それならば、絵を描かない人生を送ることこそ、利口で賢い生き方であることも理解はしている。

 それでも僕は、幼い頃から毎日絵を描くことばかりしていて、絵を描くことを前提にした人生しか選べられずにいる。

 それでいて、絵が描けなくなってしまった。

 絵を描きたいとか、絵を描かなくては、という気持ちや考えは、気持ちの良い感情や楽しい気持ちには結び付かなくなり、祈りではなく、呪いに変わっていた。

 

 それでも僕は、毎日欠かさずに鉛筆や筆を手にとって、何かしらの絵やスケッチ等を描こうとする。

 時間が経過さえすれば、この感じもいつかはどうにかなるだろうと信じて、鈍っていく絵の感覚を、少しでも留めて残そうとしていた。

 大学在学中にずっと起きていた、胃のキリキリとした痛みに関しては、卒業してすぐになくなったこともある。

 そのことからも、全ては時間が忘れさせてくれると楽観視しようとしていた。

 

卒業後

 美術大学を卒業して、僕は京都で古く安い部屋を借りた。

 京都に住む経緯として。

 僕が大学を卒業する前の年、竹内栖鳳の記念美術館が一般公開された。

 竹内栖鳳は、大学在学中に好きになった画家で、竹内栖鳳のことを調べたり絵を模写することで、日本画の多くの事を学んだ。

 そういうことからも、僕は竹内栖鳳の実際の絵を見たり、京都に残る古い文化に触れようと考え、その京都で絵の勉強をやり直して、画家になることを目指すつもりでいた。

 

 でも、先にも書いたように、京都へ移り住んでも、絵がいつまでも描けないで苦しんでいた。

 

 移り住んだ京都の住まいの屋根裏には、雀が住んでいて、竹内栖鳳(たけうちせいほう)の雀の話を直ぐに思い出した。

 師の幸野楳嶺(こうのばいれい)は雀に随分と懐かれていて、その雀たちは師の肩や手に乗って餌をねだったり、手のひらに乗っている餌を直接食べたりしていた。
 それを見ていた竹内栖鳳も、雀と仲良くなろうと頑張るのだが、雀たちはいつまで経っても肩や手へ乗ってくる迄の気を許してくれることはなかったという。

 僕も竹内栖鳳や幸野楳嶺の様に、雀たちと仲良くなれるだろうか。
 仲良くなれなくても、僕が餌をまいて、その餌を食べる雀をスケッチする位はしたかった。

 画学生時代、竹内栖鳳の描いた雀も、僕は何度か模写してきた。
 絵の雀と実際の雀を見詰め、その違いを感じてみたいと考えていた。

 結果としては、数週間ほどで僕を『ご飯のくれる人』と認識してくれた。
 雀たちは餌を求め、僕が手を伸ばせば触れる位まで近付いてくれる様にはなった。
 でも、そこから距離を縮めたり触ったりする関係にまでには、最後までなれなかった。

 雀たちを近くで見てみると、意外と険しい顔をしている。
それでも、ひとつひとつの素振りがとても可愛らしい。

僕はどこかへ出掛けるつもりで、何気なく家を出た時にも、数羽の雀たちは「チチチ…」と鳴きながら僕に近付いてきてくれる。

そんな雀たちの存在が、僕には嬉しかった。

 

 それから、直ぐ側まで来てくれる雀たちをスケッチしようとする。
 しかし、よく動く雀たちを僕は上手くスケッチすることが出来なかった。

 上手くスケッチ出来ない分、竹内栖鳳の画集を引っ張り出し、雀の絵を何度も模写を何度もした。

 この頃は、いつまでもうまくいかないのに、よく雀を描いていた。

 ↓は、その当時に描いた絵で、たまたまデジタルカメラの画像として残っていたもの。

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 京都へ引っ越して、大学在学中に何度も気を遣ってもらったK先生(女子)へ、お礼の手紙を出した。

 その手紙というのは、前回の投稿の最後に書いた話そのものだ。

 お礼の手紙ではあったのだけど、複雑な気持ちが入り交じっていて、逆に、僕は失礼なことをしていたのかもしれない。

 それから何度か、そのK先生(女子)と手紙のやり取りをする。

 そのやり取りの終わりまでの話を、カテゴリーとして分類している「画学生時代の話」とする。