絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

卒業と訴訟への葛藤 No.110

卒業

 美大の最後の年も、最後まで日本画の授業を受けさせては貰えず、大学事務や日本画教員達は、何ひとつ約束を守ることなく、僕は卒業を迎える。

 

 僕は最後の月まで、担当教員であるK先生(日本画教員・男子)に前向きな話し合いを求め続けて、そのK先生も話し合いは取り合わずに暴言ばかりを返されてきた。

 そのやり取りを、僕は毎回大学事務へ報告して、善処を求め続けてきた。

 そうやって、K先生(日本画教員・男子)の面目を潰していった結果としては、「俺達(日本画教員)には、何ひとつ悪いことはない」と言い続けていたの言葉は「俺達にも至らないことはあったのかもしれないけれど…」という言い回しと変化はしていった。

 それでも僕が求めていたのは、一般生徒と同じように絵を学べる環境を作って貰うことであり、最後まで授業さえ受けさせて貰えなかったのだから、日本画教員達が何かを改善してくれたとは、僕は考えていない。

 それに対して、彫刻のK先生や洋画のM先生等は、

日本画の先生はこれ以上ない程の屈辱を味わい、面子を潰され、その上で精一杯妥協したものがこれなんだ。

 これ以上のことを日本画の先生に求めたりしたら、お前(僕)のこれからの人生や命に関わることにもなっていく。

 だから、これくらいで妥協をしろ。」

 といった話を何度か語り、促してきていた。

 それでも、僕は卒業までは引かず、前向きな話し合いを求め続けた。

 K先生(日本画教員・男子)の発するその言葉の変化に対して、僕の大学生活の破綻や、「芸術に関わっては生きていけないようにしてやる」といった脅迫や、卒業後の進学や就職までもをメチャクチャにしたままの状況とが、釣り合いの取れたものだとは考えられない。

 A先生(女子)によるK先生(日本画教員・男子)やS先生へのフォローとして、口論のなかでは、時折こんな言葉を挟めてきていた。

 「人間は感情の動物だから、腹がたって事実とは違うことを教えてしまうことだってある。

 それは悪いことではなくて、仕方のないことだよ。」

 A先生(女子)は、こういう類いの言葉をよく口にしていた。

 薄々と、自分等に否があることを知っているから、こういう発言をしていたのだと思う。

 それでも僕は、大学の教授や助教授達がそう発言をして、仕方ない等と擁護したり論点をずらすことが正しいとは思わない。

 芸術の良し悪しというものは、物理的な部分で判断できるものではなくて、見る者の個人差や人生経験や生活環境によっても、良し悪しの判断は変わっていく。

 そうであっても、大学では判断基準をしやすくする為にも、制作上のルールを設けている。

 絵画の基礎訓練の過程で行うデッサンや着色写生では、錯視現象や感情や偏見に左右されないように、そこ有るものをしっかりと見つめる訓練をしている。

 物理的な部分での良し悪しの判断は出来なくても、それまでに絵を描いたり、芸術に接してきた経験から、善し悪しというものは明確に判断できるものが多い。

 その訓練を経た上で美大の教育であるから、感情に左右されたからと言って、生徒個人に腹をたてたから正しく評価できなかったとか、授業を受けさせない様にしたとか、そういう行為を仕方ないとは思えない。

 他の科の先生達やK先生(日本画教員・男子)の部下の様な立場の人たちが、『人生』や『命』等を語っているけれど、K先生(日本画教員・男子)は、自身の我儘や見栄や意地で、感情的になって暴言を繰り返しているばかりであり、まわりも一緒になり、その状況の辻褄合わせをして事実を歪めていく。

 教員の気持ちとか気分とかいう前に、僕は授業自体を受けさせて貰えず、1年生の頃から疑わしい指導と、嘘としか考えられないようなルールでの課題制作を強要されていた。

 他の生徒が、大学の授業で当たり前に教わっていることを、僕は殆ど知らない。

 1年生の頃に、僅かに教わった日本画の絵具の溶き方や、ムラなく絵具を塗る方法等という技法らしきものは、非常勤講師のK先生(女子)が授業内で語っていたもの。

 それ以外で他の教員から教わったことは、嘘臭く疑わしいことや、後の指導で矛盾が起こって口論になったものばかりだ。

 だから、その非常勤講師のK先生(女子)を除いて日本画教員達のことを考えると、形式以外の部分で、教員と生徒としての関係になることすらないまま、4年間の大学生活を終えた。

 

 もうひとつ細かな事柄を書くと。

 卒業式を終えて帰る時、僕はKという同級生に、後ろから小石らしきものをぶつけられる。

 そのことで、僕は殴り返してやろうかと葛藤はしたけれど、何もせずに黙ってその場を去った。

 Kはまわりの同級生達に、「高木はこれだけのことをされても、何も言ってこないんだぜ」と語り、その場にいた5~6人の同級生達と大笑いしていた。

 仮に、僕がそのKとその仲間達と喧嘩をしたとしても、その場を納める大学の教員達は、僕だけを悪者として卒業を取り消す処分としただろう。

 卒業式から自宅へ帰る途中、後頭部が冷たいと感じて何気なく触ってみると、そこには傷が出来て血だらけになっていた。

 それを大学事務へ訴えたとしても、対処らしき対処はして貰えないだろうと考え、諦めてしまう。

 

 そうやって僕は時間稼ぎをされて約束を破られ、そのまま卒業を迎えてしまったのだから、当初の話通りに、僕は大学を相手に訴訟を起こすべきなのだ。

 

訴訟への葛藤

 裁判という考えに行き着くよりもずっと前から、同級生のToやS先生等から「証拠がなければ話にならない」という開き直りの発言を何度も受けてきた。

 そういう経緯もあり、僕は日本画の教員達とやり合っている場面(僕の話しかけから、教員達の暴言の出てくる迄の流れ)を何度か録音した事もある。

 特にK先生(日本画教員・男子)の場合は、僕側から
『なぜ課題の出題内容程度のことを教えてくれないのですか?』『なぜ約束を守ってくれないのですか?』
という言葉をひとつ発すると、そこからの返事は必ず声を荒げたものになり、僕も主張を下げないために、すぐに怒鳴り合いへと発展していく。

 それが毎日・毎回のことであるから、そうなると予想して録音することも、割りと簡単であった。

 でもそこは、僕のお人好しさが強く出てしまう。

 そういう録音をして証拠を作ったり等する行為が、前向きな話し合いの障害となる考えを持っていた。

 だから極力、そういった証拠等に頼らずに、話し合いをしようと心がけてきた為に、当時に録音したものは僅かだった。

 それでも、卒業の半年前でも一月前でも、会話をすればすぐに暴言が出てくる流れにあった為に、録音を証拠のひとつとして準備しようと思えば、すぐに幾つかは集められる状況にはあった。


 僕は頭が悪いので、裁判を起こす流れや勝手もわからず、勝手な想像もしていた。

 それでも、弁護士さんに依頼した辺りから必死になれば、何とかなるのではないかと考えていた。

 事実を基にした話し合いさえ出来れば、それ等に掛かるお金や時間等はどれだけ掛かっても良かった。
 用意する証拠等の点では、録音したものがあるというだけで、不安に思うことは無かった。

(実際に訴訟を起こしていたなら、それでも証拠は不足していただろう。)

 

 でも、具体的に『裁判を起こそう』と考えると、ずっと不安に感じる何かはあった。

 その『何か』は、僕自身のなかにあるモラルというか、お人好しさなのだ。

 殆どは講義関係の先生ではあるけれど、お世話になった何人かの先生達や仲良くしてくれている一部の生徒達に、迷惑をかけたくない気持ちが大きい。

 しかし、実際に裁判等をはじめてしまえば、世間へ広がる噂やお金等の問題にもなるだろう。

 僕自身も必死になって、誰かの不都合等には目をつぶり、事実と僕の権利等を語っていくことになる。

 そうなると、洋画のM先生や彫刻のK先生等が語っていた様に、くびをくくるとか、所属している美術団体やこの美術大学からもおいだされ、生活できなくなるという話に繋がる。

 日本画のK先生(女子)から僕へ、電話で語ってきた言葉「あなたに何かを教えたことが他の先生に知られると、私の立場が悪くなる」というのも、洋画のM先生や彫刻のK先生の発言と同じ性質のものだと考えていた。

 僕が在籍していた大学を相手に裁判を起こしたならば、事実や自身の権利を語っていくことで、大学事務や日本画教員達の行ってきた言動を話題に議論していくこととなる。

 そうなった時には、僕はK先生(女子)の善意でとった行動までもを語ることで、K先生(女子)のくびまでもをしめさせるかもしれない。

 そこまでのことをして裁判を行ったとしても、もう破綻した大学生活の修復は出来ないし。

 日本画教員達が否を認めたとしても、卒業した僕は彼等(日本画教員達)から、何かを教わる機会も起こらないだろうし、僕も今更、モラルも腕もない彼等(日本画教員達)から何かを教わろうとは思わない。

 求めるものは、学費の変換と慰謝料。

 

 これまで散々「お前がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」と怒鳴られ続けてきたけれど、この意味合いをそのまま突っ返すつもりで裁判を起こすのだけれど。

 善意で接してくれた日本画のK先生(女子)にまで、くびをくくらせるという可能性を突きつける考えが、当時の僕には持てなかった。

 それと同時に、僕はK先生(女子)の存在を信用して良いものか、という迷いもあった。

 フレスコ画制作の時を含めた数回、K先生(女子)が善意で僕に接してくれた行為は、本当は善意ではなくて、僕の判断を鈍らせる為の計算ずくのものだったのではないか。

 みんなで僕を敵対視して危害を加えているなかで、僅かに僕の見方をする様な素振りをすることで、より深く陥れたり、理不尽で普通は我慢しないことでも我慢させたり、そういう思慮深い行為だったのではないだろうか。

 そんな風に、僕はK先生(女子)を信頼できる人物かどうかで迷い、いつまでも訴訟への決断をできずにいた。