絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学で取得できる資格・免許2 No.106

美術の教職員免許

 教職員免許を取得する過程の最後の辺りでは、教育実習を行うことになる。

 多くの教育実習生は、その免許を取得しようとする人物の通った中学か高校へ、教育実習をお願いする流れが多い。

 でもそれは必ずという訳ではなく、母校ではなくても教育実習のお願いをすることはできる。

 僕の場合は、実家のある北海道に戻り、そこから高校時代に通った母校へ教育実習をお願いした。

 

 教育実習に対して一番の心配に思っていたことは、人と接してやり取りをしたり、指示に従ったりという人間関係だった。

 それまでの僕は、大学生活のなかで人間関係を破綻させ、大学の教員達と毎日揉めていた。

 その揉め事のなかでは、教員達は毎回必ず僕の人間性を批判して、僕のことを良く思う人間は誰もいないだとか、僕に関わった生徒は全て揉め事の巻き沿いとなって不幸になっていると責められてきた。

 頭や理屈で考えなくても、教員達の保身や感情の勢いでその様なことを言っているのは判っていて、僕側もそんな話を真に受ける必要などないことも、十分に判っていた。

 しかし、僕は大学生活の多くを、誰とも言葉を交わさずに来た(彫刻科の友人とは会話はしていた)。

  言葉を発する場面といえば、9割がたは日本画教員達とのトラブルとなる。

 そんな状況だから、普通に笑顔でいる人を見かけただけで羨ましい気持ちにはなるし、大学の教員や同級生達が笑っている所を見れば、腹立たしかったり妬ましい気持ちになる。

 こういう場面に陥らないと解らないことなのだが、人は他者との関わりを絶たれていくと、そのことが予想以上のストレスになる。

 それに加えて、それまでの同級生や教員達とのトラブルで、冷静に物事を考えられない処まで追い詰められている。

 毎日のように夢のなかでは悪夢をみて、目が覚めた時にも、現実自体が悪夢のようなものであると再確認し、落ち込んでいる。

 テレビや漫画で見かけるような、胃がキリキリとする痛みを毎日起こしている。

 接客業のアルバイトでも、日々のストレスから「ありがとうございます」という言葉が上手く喋れなくなっていて、「あ、ありあり、ありあり…」というおかしな言葉になってしまうことも多々あった。

 (口というか、舌が上手く動かない場面が起こり、こうなってしまう。)

 こういったおかしな処は、大学生活のなかで初めて始まり、どうにも直せずに、ずっと困っていることだった。

 

 そうはいっても、教員実習先は過去に通っていた高校である。

 通っていた当時よくしてくれた先生達が多くて、人と接することへの不安なんかは不要だったと感じた程に、普通に接することが出来た。

 それでも、教職員免許の教育実習は大変だった。

 

平田先生

 教育実習が始まる少し前。
 僕は平田先生の自宅へ行き、亡くなった平田先生のことで奥さんから話を聞いた。

 これ迄、平田先生のことをあまり書いてこなかったのは、僕の文章能力の低さが一番の理由かな。

 アメーバブログで書き綴っていた時は、もう少し平田先生のことを書いていたのだけど。

 このはてなブログへ移行する過程で、話を少し書き直したりしていくうちに、多くを省いてしまった。

 そういったこともあって、ここから少し、平田先生のことや、その奥さんから聞いたことなんかも書いていこうと思う。

 

 平田先生は高校の美術の先生で、武蔵野美術大学の絵画科を卒業した人だった。

 元々は、高校を卒業してからは絵の関係で進学したかったけれど、両親やまわりから反対されて一般大学へ入学する。

 それでも絵を描くことを諦められず、その大学を辞めて武蔵野美術大学へ入学したと、平田先生から直接聞いた。

 平田先生と接し始めた辺りの話からすると。

 僕は一年生の時、体育科の柔道部に在籍していた。

 実績のある部活動ではよくある話だけれど、上級生からのいびりやら何やらで、僕は二年生になる時に進学科へ編入し、柔道を辞めてしまう。

 それからすぐに、僕は美術部へ入学して、平田先生と接する様になる。

 美術部は、画材を一部は与えてくれるが、指導らしい指導もなくて、とにかく自由に描いてよいとばかりのものだった。

 それをいい加減と見る人もいるけれど、それは平田先生としても考えはあってのことではあった。

 平田先生は、僕のことを最初は、一時の気紛れで入部した存在(時期にいなくなる生徒)と見ていたのだろう。

 話しかけても素っ気ない処もあった。

 でも僕は、下手なりにもよく水彩画を自宅で描いて、平田先生へ見せていた。

 僕は、絵画の基礎なんかを習ったことはなかったけれど、小学生の頃から漫画のキャラクターの絵等を毎日描いていた。

 中学生の頃は、地元・市の開催する絵画コンクールに水彩画を(中学校側で)出品し、賞を貰ったこともあった。

 だから、僕の知識は素人でも、腕としては全くの素人とは言いきれないものも持っていた。

 そういうこともあり、いつの間にか、平田先生は僕の存在を認めてくれ、可愛がってくれる様になった。

 僕は絵画としての基礎や勝手等も殆ど知らないのに、高校生向けの『高文連』という絵画コンクールで『全道推薦』という形式上の入選の様な扱いを2・3年次に続けて貰う。

 しかし、基礎を解ってないこともあって、僕の絵は毎回、評価する人達のなかで賛否が別れる。

 そういう状況が平田先生としても面白くて、嬉しくて、『こいつは面白い絵を描くだろ、こいつに絵を教えたのは俺なんだ』と他校の先生等にもよく自慢する。

 その当時のその場面では、僕は『教えたという程の指導など、してくれていないではないか』等と不満を持ったりもしたけれど。

 後になってみれば、平田先生の背中や姿勢をを見せて貰えていて、色んな話を聞かせてくれたりで、多くのことを学んでいたことに気付く。

 僕は高校を卒業してから、一年間の浪人生活を送る。

 通った予備校(美術の研究所)は、平田先生の武蔵野美術大学時代の先輩と、その知人で東京芸大を卒業した人とで創設した所だった。

 僕はそこで一年間、絵画の基礎を学んできた。

 

 平田先生の亡くなった時の病名などは覚えていないのだけど、肝臓を悪くしていた。

 よくお酒を飲む人で「酒を飲んで死ねるなら、本望だ」等とよく語っていた。

 平田先生は、一般的に考える真面目な先生という感じではなくて、生徒と一緒によくヤンチャをしていたと、奥さんからは聞いた。

 万引き等で捕まった生徒を、平田先生はよく庇ったりしていたもので。

 教員間での人間関係は、上手くやれる人と上手くやれない人とで、極端に分かれていたという。

 病院で余命宣告を受けてから、作品制作をより頑張っていたと、多くの人達から聞いた。

 それからある日、平田先生は自宅で吐血しながら意識を失い、直ぐに救急車で病院へ運ばれた。

 それから何ヵ月かして、一度は意識を戻す。

平田先生は
「俺はこんな処で寝ている訳にはいかない」
と言い、衰弱して歩けもしないのに這いながらでも病院から出ていこうとする。
 そんな平田先生を病院ではベッドに縛り付けていて、先生はベッドを揺すりながら暴れていたそうだ。

 それから数日して、平田先生は再び意識を失い、数ヶ月して亡くなっていった。

 平田先生が病院のベッドで暴れていたのは、きっと絵を描こうとしていたのだろう。

 もっと描きたいものは沢山あって、いうことの利かない自身の身体を悔しく思っただろう。

 こういう話を聞いていると、僕は晩年の竹内栖鳳の話を思い出した。

 晩年の竹内栖鳳は寝た切りの状態になると、病床で天井を見上げながら、絵を描くよう様な素振りを何度も繰返していた。
 それから、「もっと絵を描きたかった」と呟いていたという。

 竹内栖鳳の弟子の上村松園も、亡くなる時は同じ発言をしていた。

 絵描きはみんな、亡くなる時はそういう気持ちになるのだろうか。
 僕の亡くなる時も、そういう気持ちになるのだろうか。
 当時はそう考えたりもした。

 

 教育実習の頃。

 教育実習を行った母校で、ある先生はこう語っていた。
「平田先生は、酒を飲んで死ぬなら本望だ、とよく語っていた。
だから、本当に酒で亡くなった平田先生は大往生したんだよ。」

 平田先生の見栄もあったりで、周りの人達からはそう見えるのかもしれない。
 でも、僕の立場から見た実際の平田先生はそうではなかった。

 平田先生には、アトリエとして借りていた部屋があった。
そのアトリエは、僕も高校の頃に何度も利用させてもらった。

平田先生の話では、そのアトリエは神聖な場所で、女性(奥さんも含めて)は絶対に入れないと語っていた。

しかし、先生が入院した後はそうもいかなくて、奥さんは先生の許可を貰い、アトリエを片付け・引き払いに行った。

 そのアトリエの壁には『酒は毒だ!』等と書かれた紙が幾つも貼られていた。

 先生は周りの人や生徒達に対しても「酒は俺の栄養剤なんだ」等と、よくふざけながら強がって語っていた。

 それでも、死が迫ってくれば苦しんでいた。

 もっと絵を描きたかったのだ。

 

 平田先生が一番苦しんでいた頃、僕は美術大学で毎日揉めに揉めていた。

 僕は何の根拠もないのに、
『平田先生は、まだきっと大丈夫』
と信じていた。そう思いたかった。

 時々は平田先生の処へ電話をしていたけれど、僕の気持ちはいつも沈んでいて、先生の病気状況に目を向けていなかった。

 平田先生との電話で、僕が大学内で揉めているということを少し打ち明けていた頃、先生はいつ亡くなってもおかしくない時期だった。

 平田先生は、

 「お前みたいないいやつでも、人間関係で苦労したりするんだな」

 と語って、ガッカリしていた。

 平田先生も、僕が美術大学へ入学した後には、誰よりも絵に打ち込んで、大学の先生達にも可愛がられて、充実した学生生活を送ると信じて疑わなかった。

 時期としては、その電話をした少し後、先生は吐血して意識を失っている。


 高校生の頃、僕は何度も平田先生からこう叱られていた。
「俺なんかに気を使ったりするな!」

何度も食事をご馳走になり、絵について語り、いつか一緒に酒を飲もうと約束も交わした。

 それでも僕の遠慮がちな性格は治らず、何度も同じ様な内容で叱られていた。
そんな風に性格は治らなくても、僕は平田先生を慕っていた。

 約束の様にいつか僕が成人して、平田先生とお酒を飲める時を、僕はずっと楽しみにしていた。

 画学生になったなら、一生懸命に絵の勉強をして、先生の自慢の教え子にならなければと頑張る筈だった。

いつか先生が弱った時には、僕の出来る範囲でなら何でもして支えるつもりでいた。


それなのに、僕は先生の死期に目を向けず、気づいた頃には亡くなっていた。

先生は、僕の大学での揉め事の話を聞いて気を使い、自身の身体の事を語らずに亡くなってしまった…というより、僕がそういう流れを作ってしまったのだろう。

そう思ってから、僕はどうしても自分を責めずには居られなかった。

 

 先生の奥さんと会ったこの日から、僕はもうお酒を飲まないことにした。

 もし次にお酒を飲むとするなら、それは先生の自慢の教え子として、何か成果を挙げられた時ぐらいだ。

 他人から見ると、なんと馬鹿らしい考え方だと思うだろう。


 あれから、僕は今でも平田先生の事が忘れられずにいて、もう20年以上酒も口にしていない。