絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

2度目の美大・芸大受験2 No.95

ひとつ目の受験

 受験した三校とも、一次試験は石膏デッサンだった。

 今の芸大の流れはどうだかは知らないけれど、この年も毎年恒例の流れ通りだった。


 そのなかで、東京芸術大学だけは、石膏像に黒い布が被さて出題される。

 これも東京芸術大学の例年通りの出題なのだが、僕は石膏に布の掛かったものを描いたことがなかった。

 見たことのない初めてのものであっても、僕は何でもデッサンは出来ると思っていた。
 でも、この時に描いた石膏と黒い布のモチーフはデッサンとしてまとまらず、時間切れとなった。

 そうして時間終了と共に、自分で一次試験は通らないことを把握した。

 日本の美大・芸大のなかで一番の難易度を誇る入学試験で、作品が完成していないというのは絶望的だ。

 東京芸術大学の入試の競争倍率は40~50倍位だったと思う。

 過去のバブルの頃であれば、70~80位にまで上がっていたとも聞く。
 僕の時で、ひとつの教室に3~40人ぐらいの受験生が入ってデッサンを行い、その教室に合格者が1人いるかどうかの厳しい状況。

そんな試験だから自分でも解っていた通り、一次試験から結果は不合格だった。


 東京芸術大学の試験を終えて、思うことはあった。

 まわりの受験生の作品を幾つか見て、確かに上手な受験生は多くいた。
 でも、まわり受験者たちのレベルが、僕と段違いとまでは思えなかった。

 僕が上手だと言っている人達が最終的に合格したかまではわからないし、たまたま僕の居た教室内の受験者は腕の劣る人達だったかもしれない。

 自分が苦労して描き出したものが、まわりと比べて優っているか劣っているかが判らず、良い方向に考えようとしてしまうのは、僕が在籍している大学の同級生達の状況と同じなのだろう…僕は何度もそう考え直そうとする。

 だから、この一回の試験だけで全てを判断することはできないとは思う。

 もしかすると、この受験が終わっても解らないないままかもしれない。
 良くて数年後に気づく程度だろうか?

 それでも、一次試験の発表時に見た受験番号から考えても、教室内の何人もの受験生は二次試験に進んでいた。

 そういうものを見てきた上で、少し悔しい気持ちにはなった。

 今と違った環境でもう少し頑張っていたなら、もう少し受験用に訓練できていたなら、僕でも二次試験は手の届くものに思えた。

 そう思うのも、上手くいかなかった者の見栄的な考えかもしれない。
 受験に失敗した人達は、みんなそう思っているのかもしれない。


 今この場で、僕の悩みに関する答えの要素は、殆どが現実のなかで提示されているのだろう。

 しかし、今の僕はその答えを認識できていないだけなのかもしれない。

 いまは何をしても色々と考えてしまうのだが、まだ僕なりの結論を出さないようにしよう。

 全部の芸大受験が終われば、判断材料はもっと増えるはずだ。
 僕なりの悩みの結論を出すのはその後からだ。

 次の試験こそ頑張ろう。

 

 亡くなった平田先生は、今のこんな僕を見たらどうするだろうか?

 応援してくれるだろうか?

 怒ったり叱ったりするだろうか?

 不出来で馬鹿な教え子でごめん…

 僕は何度もそう考えながら、移動中に涙ぐんだのを覚えている。

 

ふたつ目の受験

 金沢美術工芸大学でも、僕は一次試験・二次試験ともに力を出しきれない感じがあった。

 特に二次試験の着色写生では、時間配分を上手くやれなかった。

 そして、受験した芸大のなかで金沢美術工芸大学だけは、実技試験の他に面接もあった。

 その面接の場面で、面接官からは僕の在籍している美術大学のことを聞かれる。
「君はその在籍している大学で何かがあって、いままた受験しているのかな?」

 そんな質問に、僕はどう答えようか悩み、少しの間黙ってしまう。

 面接があると解っていたのだから、そういう質問が来ることも予想できそうなものだった。
 しかし、僕は絵を描くことしか頭に無く、面接のことなど何も考えていなかった。

面接官からの質問に対して僕は、
「はい。色々あるのですが…すいません、この件に関してはお話しできません。」
と返してしまう。
 その後にも、似通った質問を何度かうけ、また僕は「お話しできません。」と返してしまう。
 そうして、僕の返答に試験管達は笑いだしてしまう。

 このやり取りだけで、僕の面接は終わってしまった。

 僕の返答が悪かったのは、自分でも充分に自覚している。

 でも、どう返すのが良かったのだろうかと、試験が終わった後にも悩んだ。

 大学で、人間関係が上手くやれていないことを話すべきだっただろうか?
 日本画の本当の基礎を学ぼうとしているのに、今の大学では学べないということを話すべきだっただろうか?

 これ迄の経験上、大学の教員たちと僕とでトラブルになっていることを知った人達は、情報など殆ど知らない内から、生徒側である僕に否があるのだろうと決めつけて考え始める。

 大学の教授とか助教授という肩書きが世間一般的にも信用・信頼できるもので、同級生たちや大学の事務に居る人達や彫刻科の先生や母など、皆がまずは僕に否があるときめつけて考えてきた。

 仮にこの話を僕が語れば、面接官も同じ考えを持つのではないか?

 もしかすると、この試験管たちは興味本意で僕の在籍している美術大学に確認をとろうとして、僕の悪い嘘はここでも拡がっていくのかもしれない。

 

 実際にS先生に掛けられていた言葉で
「芸術の世界というのはせまいもので、この世界の人間関係というのは、必ず誰か彼か繋がっている」
「お前がこの大学を辞めようが何しようが、これから先、芸術になんか関わっていけないようにしてやる」
「芸術の世界というのは元々汚い世界であって、この世界の汚さに比べたら、俺たちのやっていることなんか可愛いものなんだ」

 こんな発言をしてきたS先生は、僕の視点では腹黒い悪人だが、他の人達の視点では優しくて面倒見の良い先生で通っている。

 そのS先生の母校が、この金沢美術工芸大学なのだ。

 多少話す内容を選びはしても、こういう話をするべきだったのだろうか?

 この面接の場で、何をどう話すのが適切だったのか、試験の後になっても僕には答えを出せずにいた。


 そして、自分で予想していた通りに、金沢美術工芸大学も不合格で終わった。

 

みっつ目の受験

 愛知県立芸術大学に関しても、僕は自分の力を出しきれていない消化不良の状態で終わった。

 まぁ、僕程度ならこんなものだろうな。
 入試の感じを知りたかった訳だから、どこも受からなくても目的は果たせた。
 そう思うことで、悔しい気持ちをごまかしていた。

 僕はこれ迄、まわりの生徒の描く絵や腕の事をあまり見ない様にしてきた。

 まわりのレベルを知り、そのレベルに対して自分はどの辺りにいて、安心できるとか頑張らなければならないとか、そんな考え方を持ちたくなかった。

 まわりのレベルなんか関係なく、全力で努力して、とにかく自分を高めていきたかったし。

 僕が無視できない程の腕を持つ者がいたなら、その時には考えを改めようとも考えていた。

 でも、今回の美大・芸大受験の場合だけは、まわりを見ることが大切だった。

 

 愛知県立芸術大学の一次試験を終え、試験会場から退室時に、まわりの受験生の石膏デッサンを軽く見ていた時のこと。

 数人の受験生が、僕の石膏デッサンを不思議そうに見ている場面があった。

 僕の石膏デッサンはクロスハッチングばかりで描いていて、消し具類も使わないで完成させている。

 僕にとっては、浪人時代の後半からずっと研究しながら描いてきたやり方で、普通の描き方だった。

 でも、そうして描く僕のデッサンは、周りにしてみると普通ではなかった。
 やはり僕の存在は、受験の場面でも少しだけ異質で妙なのだと感じた。

 二次試験の着色写生では、ようやく決められた時間内に仕上げることが出来た。

 でも、やはり自分の力を出しきれた考えはなく、浪人時代に頑張っていたときの方が、よいものを描いていたと感じていた。

 

 この大学の試験だけは、時間内に制作を仕上げられただけで、自分の力を出しきった感じもなかった。

 だから「この大学も不合格だろう」「二次試験まで行けて良かった」と自分に言い訳のようなものを言い聞かせてはいた。

 そういう思いとは別に、僕は入試を通過して合格を貰えた。