絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学への呼び出し3 No.90

学ぶ過程

 K先生(女子)から借りたノートは、僕のフレスコ画の制作が終わってから初めて目を通した。

 この数日で本を読み漁り知ったフレスコ画の知識は、K先生(女子)のノートからも外れた内容ではなかった。

 そのことが、良くも悪くも、僕の自信になっていた。

 

 僕が持っている日本画の知識の殆どは、本を読み漁って知ったものだった。

 実技ではない講義の先生達の授業や直接会話から、知っていった知識もあるけれど。

 実技で、日本画の教員達から教わったのは、入学してから数ヶ月くらいの期間だけで、絵具の溶き方くらいのものだった。

 そうなったのも。

 僕は教員達の発言に疑問を持ち、そこに質問を繰り返すことでそうなった訳である。

 薄々とわかっていたことだけど、その教員達も、本当は日本画のことをよくは知らなかったのだと思う。

 時代の移り変わりや業界的な都合によって、世代的にも、きちんとした日本画のことを学べなかった背景だってあっただろう。

 それでも、生徒に対して「わからないことがあったら、わかるまで何度でも聞きにきなさい」と語る方針で教員達は動いている。

 自分等(教員達)がわからないということを生徒に語ることも出来ず、僕のように、本当にわかるまで質問しようとする生徒には、適当に話を逸らしてあやふやにしていくことしか出来なかったのだろう。

 それでも僕は質問を繰返し、対立するようなかたちになっていった。

 こんな生徒の立場で。

 そういう教員達に対して、強く考えや主張を語るという行為の裏には、それ相応の勉強や努力による裏付けがあって当然だと、当時の僕は思っていた。

 このフレスコ画に関しては、分類としては西洋絵画であり、日本画ではない。

 そうであっても、教員達に泣きつかずに「何で教えてくれないのですか」と強く出る為には、幾つかの本を読んで、知識の上では同等かそれに近い処にあって当然だと考えていた。

 

 洋画や彫刻を教える立場にある人達で、たまにこういう発言をする場面がある。

 『こちらの教え方や考え方に反発したりするのは良いけれど、そうするならそうするで、自分なりの考えをしっかり持っていてください』

 そういう場面を、僕は大学へ入学する前に見てきた過程を持つ為、こんな考え方を持っているのだと思う。

 

 これは、あくまでも当時の僕の考えであり。

 大学の教員であれば、お給料のなかには「研究費」という名目や内容の手当てもある訳で、今現在はそうあって当然とばかりには考えていない。

 

完成したフレスコ画の提出 

 自宅で完成させたフレスコ画とK先生(女子)のノートを持って、僕は寝不足のまま大学の研究室(日本画の研究室)へ行く。
 すると、研究室にはK先生(女子)と準備を手伝ってくれた上級生たち(この場面にもたまたま居た)も居た。

 それから、僕のフレスコ画を見てた上級生は、「あれ?もう出来てる?」と言って驚いていた。

状況から察すると、K先生(女子)と上級生達の考えのなかでは、絵具のことや描きかたについては、また後日に改めて説明するつもりでいた様だ。
 それを教える為に僕を待っていた間、僕は自分で勝手に勉強を始めて完成させ、研究室に持って来ていた。

 K先生(女子)や上級生にしてみれば、フレスコ画の事など、教わらなければ出来ないものばかりと認識していた。
 逆に僕側は、困っていても誰かが助けてくれる訳ではない(まわりは困らせようと動いている)ので、フレスコ画に限らず、調べることから材料の確保まで自分ひとりでやる認識を持っていた。


 研究室の片隅には、僕へ使わせようとしていたらしき生石灰も見掛ける。

K先生(女子)は、
「私はこんな風に描きました。」
といって、自身で描いたフレスコ画を見せてくれる。

 僕もK先生(女子)も、人物を描いているのだが、僕との考え方や好みや性格の差を感じる。

 K先生(女子)の描いたのはインド人の女性で、綺麗な線と丁寧な色塗りで清潔間を持った絵になっている。

 僕が描いたのは、高校生の終わり頃から好きになったボビー・コールドウェルという歌手の肖像だった。
 僕の絵は大雑把で、線よりも面やグラデーションで絵を作り上げている。

 僕は線が苦手だからこそ、本当は線を学びたい気持ちを持っていたし、1年生の頃からK先生(女子)から色々なことを学びたいと質問や会話を求めていたのだった。

 そう望んでいたあの時には、近づくことさえ出来なくて。

 完全に諦めてしまった今ごろになって、K先生(女子)とはこうして会話できている。

 皮肉なことばかりだ。

 

 それからK先生(女子)は、僕の制作したフレスコ画を研究室の奥へ持って行く。
 奥にはA先生(男子)が居たらしく、A先生(男子)の声が聞こえた後、研究室の入り口にいる僕のところへやって来る。

A先生(男子)
「これは自由研究としてやっているだけだから、無理にフレスコ画をやらなくても良かったんだ。
でも描いたならちゃんと評価しておく。
うん、わかった。」

 そう言って僕の画いたフレスコ画を少し見て、すぐに返してきた。
 その後でK先生(女子)は僕に頭を下げて謝ってくる。

K先生(女子)
「私の勘違いでした。申し訳ありませんでした。」
僕も頭をさげながら、こう返す。
「いえ、僕も色々と勉強になりました。
お気遣いなど、色々と感謝しています。

有り難う御座いました。」

 これで、フレスコ画の制作と提出は終えた。

 

善意に対する迷い

 フレスコ画の提出を終え、自宅に帰ると直ぐに寝た。

 フレスコ画の事を自分で調べ始めた辺りから、何日もまともな睡眠はとっていなかった。

 そして、深夜に眠りから覚めて、この数日間のことを振り替えって考えた。

 

 A先生(男子)には、これまでに何度も繰り返し「絵(課題)を見て欲しい」とか「課題について直接話がしたい」と求めてきたが、1度も取り合ってはくれない。
 S先生が変わりに絵を見てくれている処で、稀にA先生(男子)から僕へ話しかけてくる程度で、話はいつも、向こうからの一方通行だった。

 僕には、A先生(男子)はいないから仕方なくS先生が対応すると聞かされているのに、やはり奥で居留守ばかりを使っているズルい人…という見方をしている。

 今回のフレスコ画の件では、僕を特定の教室で待機している様に指示をし出していながら、その後は僕のことなど忘れていた。

 フレスコ画の提出時に顔を合わせても、悪かったと声をかける訳でもない。
 自身の不手際なんか何も気付いていないのか、気付いていない振りをしているのか。


 大体この辺りで、A先生(男子)は『高木と話そうものなら、どんな暴言が返ってくるか怖くて、高木には話し掛けられない』等と言い始める。

 そのことで、僕もA先生(男子)へ課題についての質問をしなくなった。

 教員間で、僕に関するデタラメな噂話が成されていて、僕とは殆んど会話をしないまま避けてしまっていることを把握した。

 

 フレスコ画を提出した時。
 A先生(男子)は「これ(フレスコ画)は自由研究だから…」と言っていた。
 それは、フレスコ画をやらなくても、年度の始まりに計画していた通りの課題を提出しておけば、何の問題もないというだ。

 それでも、1~4年生まで全ての生徒がフレスコ画をやる流れにあって制作し、僕1人だけが提出していないことに、K先生(女子)だけが疑問に思う。

 そして、K先生は僕に電話をしてきた。
 その電話の最後の辺りで、
「あなたに何かを教えた事を他の先生に知られたら、私の立場が悪くなる」
という言葉が出てくる。

 僕に何かを教えたら、その教えた先生の立場が悪くなる?

こういう話に結び付く事柄は、S先生との過去のやり取りではないだろうか。

S先生
「お前はもう、芸術に関わっては生きていけないようにしてやる!」

 そう怒鳴られた事が過去にあった。
 その時の影響が、いまこの場面に関わっているように僕は考える。
 あの時の発言は、S先生が勢いで言っただけのものではなく、いまこの時も生きている言葉ではないだろうか。

 過去に、生徒間のトラブルについての話でも、 
「暴力的な性格のお前が暴力を振るわなかったなんて珍しいな。何かあったのか?」
「我慢しないで、誰かの行動で腹立ったなら、そいつに暴力振るって判らせた方がいいよ。我慢するのは良くない。」
等とS先生から言われていた。

 そうやって暴力を振るうように僕を煽り、暴力を振るった事実を起こして退学に追い込む考えなのだろう…というのが、S先生の発言に対する僕の解釈である。

 この時期はS先生と接する機会が減っているだけで、あの険悪な関係は他者を巻き込みながら、今でも続いているのではないか。

 K先生(男子)から、大学へ来ることを禁じられた経緯も。

 過去のやりとりから誤解されたものではなく、今現在も教員間で、僕を悪者として語り続けているから起こったことではないか。

 S先生の発してきた悪意ある言葉の数々は、いまも全部生きているのだろう。

 そういう思いが次々と沸いてくる。
 

 少し前まで、僕はK先生(女子)を信用して良いものか悩んでいた。
 今回の件では、K先生(女子)は自分の立場が悪くなると把握していながら、善意で僕に接してくれた。

 善意を装った悪意というものも、僕としては幾らでも考えられるけれど。
 このK先生(女子)はリスクを持ちながらの行動であった。

 この行動に対して、善意を装った悪意という勘繰りを僕は出来ず、少なくともK先生(女子)の善意は信じなければならないと考えた。

 

 僕がK先生(女子)の存在を信用して、その後にとる行動はどうなるか。

  K先生(女子)に質問や話を持ちかけるのではなく、出来るだけK先生には近づかないようにしよう、と考える。

 そうしなければ、K先生(女子)の立場は悪くなり、次々と迷惑を掛けてしまう。

 今まで、K先生(女子)のことは、信用の出来ない近づきたくない人であった。

 でも今は、信用できる故に、気安く近づいて迷惑をかけてはいけない人に変わった。

 僕の考え方が少し変わっただけで、結局は何も変わらないのだ。