絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

3年次の裸婦のデッサンと着色写生3 No.81

放課後に行ったデッサンの話

 ここで書いていく話は、K先生が『一枚の葉っぱ』の話をした翌日~数日後辺りでのこと。

 裸婦のデッサンを進めている時に、K先生(女子)は教室の生徒たちにこう話す。
「みなさん、この授業時間が終わったあとで少しお話ししませんか?
これは強制ではないので、残らなくても良いのですが、よかったら絵のことでお話ししましょう。」

 そうして、この日の授業を終えたあと(裸婦のポーズの時間が終えたあと)、K先生は数冊の画集を持ってやってくる。
その後、話が始まってから少し遅れてS先生もやってきた。
 この話に参加した生徒は半分ぐらいで、残る半分は話に参加せずに帰っていた。

 急な話で、アルバイト等の予定の為に、出席できなかった生徒もいれば、面倒臭そうだと帰った生徒もいた。

 それから始まる話しというのは、この教室の生徒たちの描く裸婦デッサンに対する話。

 

 K先生は持ってきた画集をみんなに見せながら、話を始める。
「デッサンといっても色んな描き方があると思いませんか?」
 この時に見せていたのはミケランジェロの画集で、システィーナ礼拝堂へ施した壁画・天井画のデッサンを中心に集めた画集だった。

 以下2つの画像は、ミケランジェロの壁画・天井画の為のデッサン。

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https://www.metmuseum.org/ja/art/collection/search/337497

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https://www.michelangelo-gallery.com/study-for-adam.aspx

↓下の画像は、壁画自体の画像で『最後の審判』。

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《最後の審判》ミケランジェロ・ブオナローティ|MUSEY[ミュージー]

K先生(女子)
「こう描けばいいという訳ではありませんが、例えばこの絵の様に、皆さんはもっと立体を捉えたデッサンをしても良いと思いませんか?」

 K先生(女子)がミケランジェロの画集を見せているこの時点で、他の教員たちとK先生(女子)との指導方針は大きく違っていることを見てとれる。

 こういう時に生徒側から余計な発言をすれば、何か面倒なことに発展するのではないか…僕にはまず、そう感じていた。

 

 これより半年前。

 I先生とS先生の行っていたデッサンの授業で、I先生は僕のデッサンを指して
「彫刻のデッサンみたいだな」
日本画には日本画に適したデッサンがある」
日本画では彫刻みたいなデッサンをやってはダメなんだ」
等々と繰り返し怒っていた。

 当時の僕のデッサンは、洋画としては普通のデッサンであり、彫刻の様な立体を強く掴もうと意識したものではないと思っている。
 立体以上に、肌の色や質感や、モデルさんを取り巻く空間や位置関係等を描いていこうとすると、それ等を描くために鉛筆の色調が多く必要になる。
 僕のこういう考えを全て無視され、S先生からも、木炭デッサンや濃い鉛筆の使用を禁じられてきた。

 授業内で行っているデッサン・課題であるから、「こう描かないと単位を与えない」と言われてしまうと、単位を貰うために仕方なく従う。

 デッサンと言っても色々な考え方もあり、僕の考えるデッサンなども、色々とある考え方の一つではある。

 その上で、I先生とS先生は「こう描かないと単位を与えない」とまで言っていた考えから、K先生(女子)は違った考えを生徒に語り、問いかけている。


 K先生(女子)の持ってきたミケランジェロの画集について、どう考えるべきだろうか。
 時間差でS先生もこのアトリエ(教室)へやってきて、K先生(女子)とS先生とでは、言っていることがおおきく違う。

 教員達の上下の関係から考えると、S先生は助教授でK先生(女子)は非常勤講師ではあるけれど、教員間のやりとりや画家としての知名度からは、K先生(女子)の方が上に見える。

 だから生徒としては、どっちつかずになりながらも、どうしてもの発言を求められたなら、K先生(女子)寄りの発言をするのが人間付き合いとしての正解となるだろう。

 この時にいた同級生達も、少なからずそういう考えが頭を巡っていたのではないだろうか。

 でも、僕はそういう人間関係のやり取りはどうでも良かった。

 一年生の頃から、僕は人間関係よりも絵に集中する側を選び、結果として人間関係も絵を学ぶことも破綻して、この時の現状にある。

 僕は自分が正しいことを発言して、その結果、教員達からこれからもおかしな扱いを受ける覚悟は持っていた。

 でも、僕は絵について学びたいだけであり、誰かを責めたいわけではないので、S先生の立場を少し考慮した発言をしてしまう。

 そういう僕の行動が、また後々にも複雑な状況を残していく。

 

ミケランジェロの壁画

 補足というか余談というかで、少し脱線し、ミケランジェロの壁画の話を少しする。

Wikipediaより引用

システィーナ礼拝堂天井画 - Wikipedia

1506年、教皇ユリウス2世は、システィーナ礼拝堂の天井を絵画で装飾する計画を立てた。

(中略)

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教皇ユリウス2世(ラファエロ作)

これらの壁画は、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオら、当時もっとも高名だったルネサンス期の画家たちによって制作されたものであった。

ミケランジェロは、天井画の制作を命じられたものの、自分の本職は画家ではなく彫刻家であると自認していたので、この仕事には気乗りがしなかった。

 システィーナ礼拝堂から壁画・天井画の依頼を持ちかけたとき、ミケランジェロはこう言って1度は断っている。
「私は彫刻家であって画家ではない」
彫刻家を名乗っていても、ミケランジェロの絵などは素晴らしいと思う。

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ミケランジェロピエタ

「ミケランジェロ」 ルネサンスの英雄 | 友達はスフィンクス

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ミケランジェロ 『聖家族』

「聖家族」 ミケランジェロ | 世界の美術館

 絵画でも彫刻でも、ルネッサンス(文化再復興)時代を代表する作家たちは『しっかりとものを見詰める』ようになった。
『ものを見詰める』という処が基礎となり、それを徹底して身に付けた上で作品作りをしているからこそ、多数の分野で腕を発揮できている。
 そして、その作品の数々は何世紀も経過した現代でも、制作上での技は見劣りせずに素晴らしい作品として存在している。

 もっと言えば、デッサンの基礎をしっかりやらない内から日本画風の特殊なデッサンをやらせようとするこの美術大学の方針にも、僕はずっと違和感を感じていた。
 ただ、この当時はこの違和感がどこから来るものだという具体的なものは、自信を持っての把握はできていなかった。
 だから論理立てた説明も出来なかった。
それでも、少ない情報や周りの言動から感覚的に感じ、『確実に何かがおかしい』と僕は発言していた。

 その具体的な事柄が、この場面で多少見え隠れしている。

 そして、K先生(女子)だけは他の教員たちとは指導方針が違っているが、一番まともな事を言っているのかもしれないと考え始めていた。

 

 この時に、なぜミケランジェロだったのか、という話も書くと。

 この頃は、システィーナ礼拝堂ミケランジェロ天井画の洗浄が行われた。

 その洗浄には、日本の和紙も活躍したとか。

 天井画が描かれた当時の色が現れ、その色彩の明るさは想像以上だったと、世界的にも話題になっていた。

 そのことで、僕もミケランジェロの天井画の画集を買っていて、何度も読み返していた程だった。

 

K先生(女子)の話へ戻す

 K先生(女子)の話へと戻す。
「つい最近、日曜美術館というテレビ番組で日本画の特集をやっていましたが、皆さんは見ましたか?」
 K先生(女子)の問いかけに、僕だけが「はい」と返事をしていて、他の生徒は返事しない。
 その後も、別のテレビ番組の話や近くにある美術館の展示や雑誌など、日本画関連の情報を収集しているかの問いかけをしていく。
 僕に関しては、話に出てきたものは、全てを見たり読んだり足を運ぶなどしていた。

  だから、ずっと僕だけが「はい」と返事をし、他の生徒はそういう情報収集をしていない為に黙っている。

 これは、絵に対して向かう意識や姿勢の違いの一部分だと、僕は考えている。

(全て見た、という部分に関してはたまたまだが)

 その僕しか返事しない状況に、K先生(女子)も困り「なぜ何も答えてくれないのですか?」と問い掛けるが、やはりみんな黙ってしまう。


 それから再び、K先生(女子)は皆が描いているデッサンについての話をする。
「皆さんはどうしてこういう絵を描いているのですか?何か考えとかあるのですか?」
と質問する。

 僕は少しの間、まわりの同級生達が発言しないかを待って、誰も発言しようとしないのを見て発言を始める。

「僕個人も、先生達の指示がどういうものを描かせたいものなのかがわからず、困っています。

昨年もデッサンでは、僕は何度も怒鳴られています。
具体的な話を出すと、日本画では濃い鉛筆を使って、黒いデッサンをしてはいけないと言われてきました。
僕は鉛筆が黒いとか、日本画に適したデッサンだとか、そんなことが大事なことだとは思っていません。
それよりも、自分はどんな絵を描こうかを考え、その絵の為のデッサンをやっているのです。

例えば、モデルさんの肌の色や柔らかさや質感を上手く捉えていれば、真っ黒なデッサンになろうが真っ白なデッサンになろうが、彫刻の様なデッサンに見えようが、そんなこと自体はどうでも良いと思っています。
でも、この学校ではこういう考え方は間違っているそうで、きちんとした説明もないまま、黒いデッサンだと怒られてしまいます。

だから、僕の考え方はどう間違っているか、本来ならどういう描き方をしなければいけないのかもわかりません。

僕以外の生徒達のデッサンは誉められていますが、そういうデッサンの何を見習わなければいけないのかもわかりません。」

 

K先生(女子)
「あなたの言っていることは何も間違ってなんかいませんよ。
それがどうして間違っていると感じているのですか?」

「それは、この大学の先生達がそう言って怒ってくるからです。

僕自身は、なぜそう怒られ続けているのかがわかりません。」
K先生(女子)はS先生に向かって質問する。
「この人は何か間違っているのですか?」
S先生
「いや、何も間違っていない」

S先生はこの場になってようやく、この会話の流れはマズいと察した…僕にはそう見えた。
 そして、この話を続けるのではなく、周りの黙っている生徒たちに対して「お前たちも何でもいいから喋ろ」と促す。
 そうして、ある男子生徒はこう発言する。
「モデルさんと仲良くなれたら、もっとモデルさんを上手く描けたと思う」
 S先生は他の生徒に対しても
「お前も何でもいいから喋ろ」
と言って、黙っている生徒たちに発言するよう促す。
 促された生徒たちも何人か同じ発言を続ける。
「私も、モデルさんと仲良くなれたら、もっと良い絵が描けたと思う」 
「私も、モデルさんと仲良くなれたら…」
K先生(女子)
「皆さん、何か思い違いしていませんか?」

そうして、K先生(女子)も何をどう説明しようか悩み、黙ってしまう。

 この後、この話し合いがどう締め括ったのかは思い出せないでいる。
 K先生(女子)が教室を去った後、S先生は僕に話し掛けてくる。

S先生
「高木は色んなことを考えながら絵を描いていたんだなぁ」

 その話し指している内容にも、僕はイライラして「そういう問題じゃないだろ?」と返し、会話を打ち切った。

 

 S先生も、自身のこれまで教えてきたことの間違いや、その指導の影響を受けている生徒から違和感を感じているK先生(女子)の言動にも、ここでは気付いて危機感を感じていただろう。

 そして、僕がS先生を責めるような話の方向へ持っていけたのに、そこを教員達という言葉等でぼかし、深く突いていかなかったことも気付いていただろう、と僕は考えている。