絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

3年次の裸婦デッサンと着色写生1 No.79

進歩のない経過

3年生になってからの課題は、裸婦のデッサンから始まった。

 

 デッサンを描くに関して、今回も教員たちからは何ら説明などはなかった。
 ただ課題として、裸婦のデッサンと着色写生の課題が始まっただけだ。

 2年生の頃は、裸婦のデッサンや日本画制作の件で何度も揉めてきたのだから、今回もデッサン等で揉める覚悟はしていた。
 しかし、この時のデッサンや着色写生では、教員たちから何の言葉もかけられない。

 それは僕だけではなくて、他の生徒達も同じく、殆ど声をかけられていなかった様に思う。


 周りの生徒に関しては、相変わらず僕の絵を見て何かと噂する。

 一部には、僕のデッサンが上手だと言って後ろから覗き、話している女子生徒はいる。
 しかし、大半の生徒達はそうではなく、今回も教員達から怒られるであろう描きかたを、僕がしていると面白がり、「またあんなことやってる」と嘲笑っている。

 僕に関しては、漫画やぬり絵の様なデッサンをやっている同級生達の考え方に付き合うつもりはなかった。

 裸婦のデッサンに関しては、他の課題と違い、裸婦のモデルさんを雇ってポーズをして貰っている。

 そのために、描ける時間も限られている。
 そんな限られた時間のなかで、僕は苛立って堪えきれなくなった場合、どうなるだろうかという不安を持ちながら制作をしていた。

 それでも、まわりに生徒がいて、限られた時間内に仕上げるという環境のなかでは、それ程の苛立ちの高まりはなかった。

 それでも、以前のようにモチーフと自分だけの世界に入り込む様な集中は、出来なくなっていた。

 出来上がった自分のデッサンや着色写生を見ても、この美術大学へ入学してきてから、殆ど進歩していないという実感もあった。

 

主観的に見てしまう自身の絵

 アメーバブログからはてなブログへ、この話を移行させている過程で、幾つかの話を省いている。

 どこかで書き直そう省きながら、ここまで書く機会を失ってしまっていた内容を、ここでひとつ書いておく。

 絵を描いていると、自分の絵は客観的に見れなくなる傾向にある。

 だから僕の絵も、自分で思っている程のものではないのだろう。

 しかし、同級生達のデッサンや着色写生では、上手と見れるものがない。

 浪人時代に通っていた予備校には、洋画や彫刻やデザインを志す生徒が居て、全体で4~50人くらいだっただろうか。

 僕の通っていた予備校の生徒達は皆、この同級生達よりも腕はずっと上だった。

 当然のことながら、予備校の生徒達は、それ相応の訓練をしているからだ。

 それから、この美術大学の入試では、僕の代からデッサンの試験は廃止された。

 その為、この美術大学へ入学してきた僕の代の生徒達は、入試課題であるデッサンの対策をしていない。

 それ処か、デッサン自体に頑張ったり苦労した経験も少なく、知識や経験が乏しい。

 中高生のゆるい美術部レベルのデッサンしか描けないまま入試を通過し、I先生やS先生の指導によって、基礎としてのデッサンではなく、漫画やぬり絵の様なおかしなデッサンを描いている。

 そして、それが日本画のデッサンとして正しいと思い込み、教員や多くの生徒達が一緒になって、感じの違う僕のデッサンばかり批判して、自分等は上手になったつもりでいる。

 僕が認識している限り、I先生やS先生も、デッサンの基礎をそれほど理解はしていない。

 

 2年次で、実際にS先生と言い合いになった話で、デッサンと白黒写真の話がある。

 S先生から僕へ賛同を求めてきたデッサンの話に、白黒写真と見間違える程のデッサンこそ、力のあるよいデッサンだ(お前もそう思っているだろ?)、と語られていたものがある。

 この発言は、僕を言い負かす為の屁理屈のひとつだったのか、S先生自身で本気でそう考えているのか、どちらだったのか僕には判らない。

 絵を学び始めて、まだデッサンのことなどを知らない人達であれば、『白黒写真のようなデッサンを描きたい』というイメージでデッサンする者もいる。

 それでも絵画の基礎を学んでいく過程で、デッサンとはそういうものではないと、大体気付くものではないだろうか。

 

 デッサンでは、白い紙に黒い鉛筆や木炭でモチーフを描いていく。

 その描く過程では、モチーフの位置関係を測ったり、モチーフの取り巻く空間も描くかを選択したり、色調を黒の濃淡に置き換える等、無言のままに多くの情報が入り込んでくる。

 洋画や彫刻のデッサンなどで、黒いデッサンを好まれるのは、それだけ多くの情報を感じ取り、紙面上に描きとろうとする考えがあるからだ。

 今の時代はデジタルカメラも普及しているが、この美術大学で僕がやり取りしていた時期は、まだフィルム写真が主流だった。

 写真は撮影する時に、フラッシュをよく使う。

 フラッシュを使いながら撮影することで、対象は見やすくなる訳だが、デッサン的に捉える情報はフラッシュのなかに薄まっていく。

 同時に、『白黒写真のようなデッサン』というのは、目に見えたままのイメージのデッサンという考えもあるのだろうが、フラッシュを使った写真は、目に見えたままの映像ではない。

f:id:motonari1:20200302124325j:image

アートエキシビジョン in ヨーロッパ:ロバート・メープルソープ「A PERFECTIONIST」がKunsthalで開催中! | SNIFFING EUROPE

  フラッシュを使わないで撮影した室内写真や、カラー写真を補正せずに白黒コピーした際、黒い・暗い映像を作ってしまったことはないだろうか。

 その黒い・暗い映像は、人の主観や見えやすさを考慮せず、機械的に作り上げた実際の映像でもあり、ひとつの映像的な真実でもある。

 

 I先生やS先生が僕へ言いたかったものを、僕は何度もよい方向に考え・解釈しようとはしてきた。

 でも、話を聞けば聞くほど、よい方向に考え・解釈する為の余地はなくなっていった。

 鉛筆画や絵として、白黒写真の様なデッサンを描く行為も、ひとつのデッサンとして受け入れろ(否定するな)という意味合いのものだったなら、僕もそこに反論はしない。

 でも現実には、鉛筆画(白黒写真の様なデッサン)とデッサンは、絵画の基礎としての意味合いからも別物であると僕は語る。

 その僕に対して、S先生は「そういう考え方をしているから、ロクな絵が描けないんだ!」「デッサンも絵だから、高木の様な考え方は間違っている!」と強く叱る。

 そういうやり取りを見ている同級生達は、大学の助教授の立場にあるS先生の主張を正しいと考える。

 それから、普段から生徒思いで優しいS先生が、僕に対してだけ感情的に怒り・怒鳴る光景を嘲笑うのだ。

 

 この話自体は、大学2年次のやり取りではあるが、その影響は、この時期である大学3年次にも強く残していた。