絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

裸婦の日本画制作2 No.69

見間違う絵

 納得ないかないまま、完成の目処もついていない課題を持って、講評会に出席する。

 この時の講評会に出席した先生は、S先生とI先生である。

 

 講評会へ出席すると、同級生の描いた作品のなかのひとつで、僕の作品とそっくりなものを見付ける。

 遠目に、自分のものと見間違えてしまった程だった。

 ぼくの絵もその人物の絵も、裸婦の背景部分は、モデルの肌に割りと近い色を選び、人物を靄のなかから浮かび上がるように塗っていこうとしている。

 裸婦の肌の色では、微妙な色合いの変化を作ろうとしているが、背景に色を食われてボケた感じになっている。

 僕と同じようなイメージで描き始め、曖昧な色の混じわりに翻弄され、悪い流れのままで講評会を迎えたのであろう処まで、よく解る。

 その絵を描いた生徒のイニシャルはSという女子生徒で、入学して数ヵ月ほど迄は、冗談等も言い合っていた。

 偶然ではあるのだが、Sから始まる同じ名字の女性は2人いて、2人とも美術関係の高校を卒業していて、その2人とも入学当初は僕と仲良くしてくれていた。

 入学当初、僕と仲良くしてくれた人というのは、後々にも、S(男子生徒)やTaやK(男子生徒)といった~教員達との関係を上手くやっている生徒達とは、あまり良い関係を作っていない。

 そして、僕は人間関係のゴダゴタから、そういう人物達に迷惑をかけたくないからと、関係も絶っていったのだ。

 

 講評会が始まる前から、僕の絵ばかりを悪く言われるのは予想もつく。

 そんな僕とそっくりな絵を描いてきたSの課題に、S先生とI先生はどういう批評をするのか、そういう部分に、僕は強い関心を持っていた。

 

生徒全体への批評

 他の生徒何人かの作品を批評しているのを聞いていると、生徒の全体的な出来は悪いと語っている。

「もっと幾らでも、やりようは有るだろ」
「もっと色んな事をやっていいんだよ」
「何でみんな、こんな風にしか描けないんだろう」
「今の若い人たちは、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。」

こういった言葉を、生徒の批評で何度も繰り返す。

 そのなかで唯一、Taの作品だけは
「傑作だ」
「一番上手くモデルさんを捉えている」
等と言って褒めている。

 

 Taに関しては、大学入学前から日本画画家に絵を教わり、日本画の画材の勝手を知っている人物だった。

 だから、いつも講評会で見るTaの絵には、絵具や絵作りの馴れた感じがある。

 そういう背景からも、同級生内では一番絵が上手く、評価もされている、という認識を持つ生徒が多かったと思う。

 僕自身よりも腕が上かどうかの考えは別として、僕もそういう認識はしていた。

 でも今回ばかりは、Taの絵は手抜きや誤魔化しのような要素が見えているのに、なぜこんなに誉められているのかが理解できない。

 その絵は、モデルさんの背中と後頭部しか描かれておらず、手や足などのパーツは殆ど隠れて描いていない。

 デッサンの時から、Taは上手くデッサンが描けておらずに「デッサンなんか描けなくても、良い絵は描ける」と豪語しているし、この講評会以降も、その傾向を続ける。

 人体を上手く描けないのを誤魔化す為に、背中と後頭部しか見えない場所を選び、描きあげたように僕には見えてしまう。

 それから、S先生とI先生は生徒達に、モデルの肌の色合いを追求して描くよう、生徒達に強く指導していたのに、Taの絵にその感じはない。

 そうやって、上手く誤魔化して失敗を回避した絵を「傑作だ」等と褒める。

 描写力やデッサン力等がなくて描けなかったり、試みの失敗したものに「なんでみんな、こんな風にしか描けないのだろう」等と語る。

 当時も今も、この件で思うことは変わっていない。

 単純に、教員の力不足や教員達の指導自体に問題があるから、と僕は考えてしまう。

 

 この講評会で、S先生とI先生が数少なく褒めているのは、多少描けた上で色んなことをしなかった作品だけだった。

 I先生が時折語る言葉で、

「今の若い人たちは、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。」

 というものがある。

 この言葉を、僕は幾つかの美術雑誌でも見掛けていて、美大や芸大の教授・助教授等が生徒を批判するのに好んで使っているもので。

 ある意味では、この世代の教員達の流行語なのかもしれない。

 『今の若い人たちは、手先とか描写力とかは優れているけれど、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。』

 このなかで『手先とか描写力とかは優れているけれど』という言葉をS先生やI先生が省いたのは、この大学が三流の美大で、デッサン力や描写力のない生徒を入学させているからだ。

 その上で、その力の劣る部分を教員達は知っていながら、教えることもしない。

 厳しい批判をすることで、指導しているつもりなのだろうが、デッサン的な基礎力というのは、口だけで幾ら批判しても伸びるものではない。

 そういうものを口先ばかりで批判して、教員側は指導もして自分等に落ち度は無いような語りをするけれど。

 浪人時代に基礎を学び、苦労した経験を持っていると、そんな指導では伸びるものも伸びないと感じてしまう。

 僕もそうだが、S先生やI先生に批判されている生徒達も、絵を学びたい意欲は強く、その為に多くの時間を割いて努力もしているのだ。

 

 美大や芸大の難関校は、特にバブルの頃をピークに競争倍率が跳ね上がっている。

 浪人時代に聞いた話では、東京芸大の入試で60~80倍くらいまでいったという。

 競争倍率が上がり、力を持っている者達で争うということは、入試で求められる技術も上がってくることになる。

 競争率や難易度が上がるほど、描写的な力を身に付けていくことになり、受験を終えた以降も、描写から離れた自由な絵を描けなくなる傾向がある。

 描写や写実を詰めて学んでいくと、物理的なものばかりが絵に詰め込まれてくる。

 そうなると、気持ちとかイメージとか、そういう「色んなこと」と言われるようなものは、絵に入る余地も無くなっていくのだ。

 

 そして、『今の若い人たちは…』等と語っている人達の世代は、その様な競争倍率や技術を求められず、経験もせずに、美大や芸大へ入学してきた。

 そういう世代が、自分達では通過できない程の難しい受験体制を作り、通過した生徒を指して『今の若い人たちは…』と語ってしまう。

 そう語る前に、生徒へ「創造力とか独創性」を考えさせたり、学ばせ伸ばす努力をするのが美大や芸大の教員のやることではないか、と考える。

 それだけに、教員達の語る『今の若い人たちは…』の言葉を、僕は素直に聞き入れることは出来ずにいた。

 

 日本画を知る人であれば、作家に疎くても横山大観のことは知っているだろう。

f:id:motonari1:20200204004837j:image

生誕150年 横山大観展 ―時代を超えて輝く日本画の巨匠― あでやか《紅葉》《夜桜》二大競演は 7月1日まで - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン

 横山大観は、東京美術学校(今で言う東京芸大)の1期生であり、卒業してすぐに、東京美術学校の教員となった。

 その横山大観は、絵など学ばずに東京美術学校へ入学してきた。

 実は、東京美術学校を受験する前、語学学校の受験をして一度は合格している。

 しかし、併願してはいけない学校を併願していた為、合格を取り消しになる。

 その年に東京美術学校は開校され、翌年を目標に頑張るつもりで、どんなものかを知ろうと受験して合格した。

 生まれ持った才能とか感性という言いまわしも有るだろうが、東京美術学校は素人を入学させはしても、その素人を卒業時には横山大観に育て上げている。

f:id:motonari1:20200204010432j:image

横山大観屈原

横山大観 - Wikipedia

 当時から僕の好んでいた竹内栖鳳は、弟子を育てる為に、色々と考えて実践していた逸話もある。

 弟子に庭掃除をさせ、落葉を全て拾い捨てたのを見て「これでは風情も何もないのだよ」と語り、木の枝を揺すってわざと落葉を少し落としたり。

 自身の絵を弟子に模写させる一方で、弟子が師の絵に捕らわれないで絵を描くことを喜んでいたり。

 

 そんな話を幾つか知ってきた僕は、S先生とI先生のこの講評会を、力のない教員の悪乗りした指導ばかりと見えてしまうのだった。