絵と猫とぐだぐだ

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

日本画には影がない No.13

 話の流れとしては、前回の続きとなるが、今回は日本画と影の話となる。

 

日本画には影がない

  日本画を学んでいると、割りと早い段階で日本画に影はない」という言葉を耳にする。

 それから、日本画では影を描いてはいけない、というルールに従うことになる。

 しかし、その意味合いをきちんと説明していない場面も多く、疑問に思う人も多いのではないだろうか。

 結論を急ぐ人は、次の見出しまで文章を飛ばすとよい。

 

 僕がこの言葉をはじめて聞いたのは、浪人生活を始めた予備校でのこと。

 教わったのは、通っていた造形美術学院という予備校・研究所の創設に関わった木路先生という方。
 画家であり、美術評論家でもあった。

 この先生は、高校時代にお世話になった平田先生の大学時代の先輩と後輩という関係を持ち、平田先生と直接の交流も持っている方だった。

 木路先生は生徒への面倒見も良い人で、僕も色んな事を教わった。
 この当時の細かな内容までは覚えていないのだけど、その「日本画の影」の事を聞いて以降、僕なりにも意識して本を読み漁ってはいた。

  その上で、色々と思うことはある。

 『日本画の影』という問題を、現代の日本画必用以上に複雑にしている。

 現代の日本画の作家は、日本画を語りながら、意図して影を描いている者もいる。
 その作家が、自分なりの考えや拘りを持った上で描いていれば良いが…多くの場面で、「不勉強なのでは?」と感じてしまうことも多い。

 いまの時代も日本画で影を描いてはいけない流れがあるならば、現代の日本画で影を描く作家の行為や主張も特別な意味を持つかもしれない。

 しかし、今から100年も前の近代日本画において、美術史的な観点からも、既に日本画に影を取り組んだ作家が現れている。

 そして、近代の日本画と現代の日本画とでは、日本画の素材や描き方に関する様式も大きく変化している。

 この辺りを、指導にあたっている人達はしっかり勉強しておらず、きちんと教えることも出来ずにいる。

 或いは、影を描かない教育や指事を出していながら、そのことを軽視している。

 だから、美術史の理論上は解決されていることなのに、日本画の絵の技術を学んでいる者達が、そこを理解しないまま通過していく。

 少なくとも、僕の通っていた美術大学はそうであり、僕が美術大学で絵を学ぶことに躓いた始まりはここであった。

 

なぜ日本画に影はないのか

 画学生の終わり頃、こんな話を読んだ記憶がある。
 古くからの日本画は、洋画のようなモチーフをじっくり見詰めながら描くものとは違った。
 心のなかの心象風景などをもとに描いているから、自然とモチーフ等に影を描かずにきたというもの。

 西洋絵画を比較として挙げると、西洋絵画は写実性によるリアリティーを持つ。
 逆に、日本画のリアリティーは、写実よりもディフォルメしたイメージや偶像からリアリティーを感じさせようとする。

 このリアリティーの話は、「上村淳之」という日本画画家の著書や講演会で語られていた内容だ。

 ただ、ここで書いている内容は20年位前に読んだ本などの記憶なので、僕なりの解釈に転換された内容になっているかもしれない。

 今となっては、上村淳之のどの本だったかかは、特定できないでいる。

上村淳之のことをもう少しだけ補足すると、僕が高校の頃から感化していた上村松園のお孫さんである。

 下の画像は、その上村淳之の作品。

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「雁金」

上村淳之,Uemura atsushi,主な作品と作家画歴をご紹介しています。 / 絵画販売・絵画購入・絵画買取・絵画売買の仲介などいたしております。アートのことならアンシャンテへご相談ください。

 上村淳之とは別の話となるが、戦前の日本画の訓練の方法がそうさせている、という見え方もある。

 日本画の訓練は今と違い、模写を基本としていた。

 師から渡されたお手本を元に、繰り返し描き写し、そのお手本の絵を完全に身に付けていく。

 そうしてお手本を見なくても、お手本で描き写してきたモチーフを描けるようにしていた。

 他にも、動物の剥製などを見てから、別の部屋へ行って剥製を描く。

 その剥製を見て別の部屋で筆を進める行為を、絵の完成まで繰り返す、という訓練の話も何かの本で読んだ。

 そうした絵の訓練の繰り返しが、モチーフに現れる影を画家に意識させなかったのではないだろうか。

 

 戦後の日本画に関しては、よくモチーフを見て描く西洋の勉強法が取り入れられた。

 それでも、戦前に日本画という分野が明文化された辺りから「日本画に影はない」という言葉が語られていて、その名残として「日本画に影はない」というルールを残している。


 近代日本画の『日本画の影』に関しては、また後の話で、『円山応挙』や『岡倉天心』や『竹内栖鳳』等の話と合わせて書いていくつもりである。

 

前回のつづき

ここからは、前回の内容の続きとなる。

美術大学での最初の課題で言われていた言葉。
「光が当たった結果現れるものは一切描かないでください」
 という言葉について。
 これは、「モチーフに写り込む黒い影を描かないでください」というだけのことだったのだろう…そんな風には、随分後になってからは考えるようにはなった。
 だがその当時の僕は、質問に対する教員達の的はずれな回答や指示を受けていた状況も含めて、おかしな方向に導かれていく。


 当時の迷いのなかで。

 指導の段階的なもので、この言葉通りに描くことを求められていたかもしれない、等と最初に考えた。

 ユリの花や葉の持つ透明感や不透明感や立体物としての描写などは一切無視し、アウトラインと個有色のみを抽出しなさいと言っているのではないか。

 それまでに日本画には影はない」という言葉は耳にしてきたが、「光が当たった結果現れるものは、一切描かないでください」という指示は、同質のものという考え方は出来なかった。

 ずっとこの言葉に悩まされていたが、今にして思えば、同じことを指していた様にも考えられる。

 

 この言葉の問題を、一番適切に処理できる方法も、実は明確だった。

 K先生の指示してきた「光が当たった結果…」という言葉を適当に聞き流して無視し、普通の描写で課題用の絵を描いてしまうのだ。

 実際に、まわりの生徒は「光が当たった結果…」とな「日本画の影」などの問題を認識していないし、ユリの葉に反射している蛍光灯の光や、茎に映る影等もを描いていた。

 その課題を見る教員達も、その光や影に対しては何ひとつ触れた発言をしない。

 そのことに触れて質問する僕へ、理屈など関係なく怒るばかりだった。

 まわりや状況を見れば、教員達の言葉を聞き流すことが適切であることは判る。

 それでも、僕がそれをしない考えや理由も、幾つかはあるのだ。

 

 その辺りの話も、これから書き綴っていく訳ではあるけれど。

 何よりも、絵を描く者どうしである以上、どんなに険悪になっても、いつかは解り合えると僕は信じていた。